トリエントミサ<伝統<カトリック

昔も今も変わりないカトリックのミサ(ラテン語によるトリエント典礼の伝統的なミサ)Traditional Latin Mass in Tokyo

反十世会のよくある考え方 

しかし、問題はそれほど単純ではない。問題は、SSPXがパリアラーニによれば、「…普通の教区では、信徒はもはや永遠の救いを確実にするために必要な手段を見つけられない」と信じていることである。これが、SSPXが非合法な奉献の必要性を正当化する根拠となる、いわば「必要性の状態」という根本的な主張なのである

しかし、パリアラーニの主張――「普通の教区では、信者はもはや永遠の救いを確実にするために必要な手段を見つけられない」――は、真実ではなく、分裂を招き、思いやりに欠け、異端と言えるだろう。  聖ピオ十世会のこの「教義」に関して、他にも愚か傲慢な言葉が思い浮かぶ

パリアラーニ神父の主張はばかげている。私は60年代と70年代に育ち、ラテン語ミサを支持する者として発言している。「普通の」教区では、聖なるミサが真に捧げられ、聖体拝領が行われ、秘跡が真に授けられるなど、すべてローマ・カトリック教会の公認の儀式である。ミサでは聖書が朗読される。普通の教区では、聖体礼拝、ロザリオ、十字架の道行きなどが捧げられる。毎年イースターには新しいカトリック信者が教会に入信する。パリアラーニ神父は「普通の」教区に行ったことがあるのだろうか?パリアラーニ神父の主張は、新ノヴァティアヌス派、あるいは新ドナトゥス派のような異端の匂いがする。

さらに、カトリック教会が救いに必要な手段を提供していることは、カトリック信仰の真理である。パリアラーニ神父の主張は、これらの手段が「普通の教区」には見出されないとしている。一体どういうことだろうか?ミサに参列するカトリック信者の大多数が通う「普通の教区」に見出されないとしたら、必要な手段は一体どこに見出せるというのだろうか

パリアラーニの主張は、カトリック教会がもはや救いに必要な手段を提供していないという、狡猾で回りくどく、欺瞞的な言い方に過ぎないと結論づけても、責められることはないだろう。つまり、もし「普通の教区」がもはや必要な手段を提供していないのであれば、カトリック教会が失敗したか、あるいは必要な手段は別のところにあるかのどちらかだ。  したがって、パリアラーニの主張に暗黙のうちに含まれる、そして破壊的な帰結は、カトリック信仰と必要な手段は聖ピオ十世会(SSPX)の中にのみ、あるいは確実にSSPXの中にのみ見出されるということである。

これは真実に対する、そしてカトリック教会の統一に対する、到底容認できない冒涜である。パリアラーニの発言は虚偽であり、分裂を招き、非人道的であり、異端とさえ言えるしたがって、聖ピオ十世会(SSPX)が教皇の許可なく聖別式を執り行うならば、関与した司教は破門されるべきである。さらに、SSPXの儀式に参列した信徒、およびSSPX組織に何らかの支援を提供した者にも制裁が科されるべきである。

Fr. Pagliarani’s SSPX Statement: Untrue, Divisive, Uncharitable, and Arguably Heretical – Roma Locuta Est

まことのカトリックのミサ

真のカトリックのミサはトリエントミサだけです

今の時代のはまがいものです

だから誰も本物のミサにあずかれない時代なのです

そして本物の秘蹟にあずかれない時代になって半世紀経っています

鎖国時代に信者がそうであったようにまだ続くことでしょう

だからトリエントミサに現代でもあずかれることはとても大変ありがたいことなのです

神はいつでもどこにでもおられます

私たちはいつでも主とともに過ごすことができましょう

それでも真の聖なる典礼という最高の礼拝と現存の中で

主と出会えるのは何と嬉しいことでしょう

ノブスオルド

今のカトリック教会は、以前の原初からのカトリック教会とはもって非なるものです。これはノブスオルド(教会)と呼ばれています。

ノブスオルドは元からあったカトリックの教えや伝統を捨ててしまいました。そこでカトリックの教え、伝統、生き方を保持するために十世会やレジスタンスができました。

十世会やレジスタンスはカトリック教会から逸脱したマイノリティに見えるかもしれませんが、逸脱したのはマジョリティのノブスオルドです。従来のものから変化し動いたのがノブスオルドであって、十世会やレジスタンスは以前から全く変わっていないし動いていないのです。

ですから、ノブスオルドにあって教導権と教義との矛盾に悩んでいる方は、ノブスオルドを捨てて十世会やレジスタンスに来ることで、その苦しみから解放されるでしょう。ノブスオルドに留まって社会的、世俗的、共同体的な安心感をとるか、社会的、世俗的、共同体的にマイノリティになろうとも教義的、信仰的にカトリックであり続ける超自然的な安心感をとるかという選択があるのです。

伝統主義というのは変わり者の極右ではありません。昔は皆がそうだった「ただの普通のカトリック」に過ぎません(歴史を見ればわかります)。むしろ、ノブスオルドが変質し信仰から離れた極左的な「ただならぬ狂気の沙汰のカトリック」なのです。

そんなノブスオルドに留まっていて、ノブスオルドに合わせて染まっていれば、ノブスオルドの毒で信仰が損なわれることは明らかです。そうならないように十世会やレジスタンスがあるのです。

カトリックに留まりたいなら、ノブスオルドを捨てて、十世会やレジスタンスに来ることになります。

 

 

十世会のサバイバル・オペレーションを巡って 

フランス教区の信者への手紙

2月2日、聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリアラーニ神父より、教会の命運に関わる重大な発表がなされた。1988年に創設者マルセル・ルフェーヴル大司教が遂行した「存続作戦 suvival operation」のため、7月1日にエコンにて新たな司教が叙階される。

Address of the Superior of the French District of the SSPX to the Faithful - important background

 

十世会はバチカンの許可を得るべく交渉をしています。

(たぶんルフェーブル大司教の時と同じでやっても無駄でしょう)

各国の十世会は今回起こるであろう「離教」や「破門」にリベラルな信者が動揺したり十世会から離れることへの対応に動いています。

(日本はいかに、、、)

とにかく、ルフェーブル大司教のサバイバル大作戦は遂行してもらいたい。

(あとはどうでもいいこと)

 

 

サルデスの教会の記述を現状に当てはめてみると

黙 3:1 サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる

黙 3:2 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。

黙 3:3 だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。

黙 3:4 しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。

 

神の七つの霊と七つの星とを持つ」とは7つの秘蹟をもつカトリック教会のことだが、近代主義と疑わしい秘跡に満ちていて「生きているというのは名だけで、実は死んでいる」。

不可謬をかざして正しいと思っているカトリック教会に対しては、「あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない」とされている。

このような教会に対して「どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし」とあくまで伝統に沿うことを勧告している。

このような状態においても、「その衣を汚さない人が、数人いる」として、ノブスオルド典礼近代主義に汚されない伝統主義者がわずかに残存して、「わたし(神)と共に歩みを続ける」という解釈になる。

いかがでしょうか。