働き蜂を司祭にたとえることに触れましたが、司教は女王蜂にたとえることができるでしょう。
女王蜂がたくさんの子供を産むように、司教もたくさんの司祭を生み出します。
司祭(働き蜂)は司祭を産むことはできず、司教(女王蜂)だけが司祭を産出することができるのです。
カトリックの聖職は結婚という血縁によっては継承することのできない独身性です。
司祭制度が血縁に基づいていたら、悪い子孫が災いすることは必至です。
けれども、司祭職は進んで招きに応じたものなので、やる気のクオリティが保てるのです。
結婚では継承できない司祭職を持続可能とするためには司教が必要です。
血縁における親のように、司教は司祭を生産するのです。
もしも司教がいなければ、司祭職は途絶えてしまいます。
司教は司祭だけでなく司教も生みます。
他と変わらない同じ蜂が特別な栄養を与えられて女王蜂になるように、
他と同じ司祭が特別な恵みによって司教とされます。
このように血縁によらない霊的な血統が司教によって維持されていくのです。
この血統をたどるとすべての司教と司祭はキリストに行き着きます。
ですから、司祭や司教はキリストの霊的な血統を受け継いでいるのです。
司教は現世における管理者であるばかりでなく、次世代を産む継承者です。
それによって教会が持続可能なものとなっていくのです。
教えや伝統は信徒個人でも伝承することができますが、司祭職は司教でなければ伝承できません。
このように、司教は教会位階制度の存続に絶対必要なものなのです。
信仰や掟や伝統などのキリスト教のコンテンツを載せて維持して運んでいくシステムの鍵となる存在なのです。
それによって「キリストの神秘体」は誕生の時からただひとつの体として、また、キリストというただ一本だけの木として生きているのです。