主は、7つの秘蹟を制定し、教会にその運用を委ねられました。
これらは「疑わしい doubtful」ものであるというのがルフェーブル大司教、及び、ピオ十世会の当初からの見解です。
典礼が伝統的ではないからではなく、秘跡が条件(質料と形相)を満たしていない疑いがあるからです。
秘蹟が無効だと断定はしませんが、「疑いに満ちている」というのは、ほぼ無効だと言っているのに等しいとも取れます。
特に、司教の叙階が疑わしければ、司教が叙階する司祭も疑わしく、その司祭がおこなう全ての秘跡も疑わしいものとなります。司祭が関与しないと成立しないのは聖体、告解、堅振、終油、叙階です。
つまり、公会議後の教会には秘蹟はなく、聖職者不在の単なる祈りの集会であったという恐るべきことになります。洗礼はまあ有効なので天国には入れるでしょう。しかし、公会議が望んだように、まんまとプロテスタントと何ら変わりはない団体になっているのかもしれません。
神様はそんな恐ろしいことが起こることはお許しにならないと、センチメンタルな気持ちになるかもしれません。しかし、もしそうならば、現在、カトリック教会が辿り着いている悲惨な状況はどうだと言うのでしょうか。
このような恐ろしい現実であるかもしれないことを冷徹に認識した上で、秘跡が「疑わしい」と言っているのです。
そのため、確実に有効な秘蹟を保全し継承していくことが何としてでも必要なわけです。
もしも、秘跡が疑わしくないのなら、新しい典礼における秘跡の有効性が確実なら、十世会はノスタルジックな古典音楽愛好会のようなものに過ぎず、そこまで頑張る存在意義はないでしょう。
そして、最も重要なことは、司教の叙階が有効でなければ、いくら伝統的典礼をしたところで、その司教が生み出した司祭と秘跡は無効であるということです。
その意味でも、ルフェーブル大司教は有効な秘蹟をもって司教を叙階しておく必要が絶対的にあったと言えるでしょう。