伝統的トリエント典礼と新しく作られたノブスオルド典礼の両方をおこなうこと、もしくはその両方を実践する司祭はバイリチュアルと呼ばれます。
公会議後を受けて全世界のミサがノブスオルドに変わったのですが、伝統的なミサを保持したり復活させる動きが世界各地に生まれました。これはとても喜ばしいことでした。
バチカンは伝統的ミサを「特別形式」のミサと呼んでいます。基本や通常のノブスオルドではなく、あくまで「特別」だから、やってもやらなくてもいいオプションだということなのです。裏を返せば通常のものとして実施してはならないという含みがあります。そして特別どころか、やってはいけないというのが現教皇が繰り返し伝えていることです。
今では伝統的ミサはグレゴリオ聖歌やラテン語や古典趣味の好事家のマニアックでマイナーな趣味と思われるむきもあります。そうではなく、すべての地域とすべての時代に必要な唯一のミサなのです。それが公的権威をもって廃止されています。
にもかかわらず、伝統的ミサを知らなかった司祭や信徒がそれを発見し、その良さが理解できるのは恵みといえましょう。
それはいいのですが問題はその先です。それは伝統的ミサを司式する一方で、ノブスオルドのミサをおこなうというバイリチュアル状態になることです。伝統に完全に立ち返る過程として、そういう状態があることは自然なものでしょう。しかし、それが常態化するのはいかがなものでしょうか。
なぜなら、それはノブスオルドを容認することになるからです。ノブスオルドは明確にトリエントを否定します。トリエントも明確にノブスオルドを否定します。そういう相容れない関係だからです。その二つがひとりの司祭の中に共存すれば自己矛盾をきたすのです。
トリエントだけをしているのが伝統派で、バイリチュアルは保守派です。伝統派のようでいても自分の教区ではノブスオルドをしているシュナイダー司教はバイリチュアルです。フォンダ司教がもしもバチカンに戻っているときにノブスオルドをしているならバイリチュアルとなります。ノブスオルドときっぱり縁を切ったビガーノ大司教は伝統派です。
カトリックに改宗してのち、以前の宗教も奉じていることとバイリチュアルは似ていないでしょうか。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」。理解したのなら、どうしてバイリチュアルでいることができるでしょうか。世間体や従順があるので仕方ないかもしれません。トリエントを全くしないよりはましなのかもしれません。
それは二人の主人に仕える状態ではないのでしょうか。同じひとつの神に仕えているから問題ないということでしょうか。エキュメニズムは同じひとつの神に仕えるならどの宗派でもいいといっています。トリエントも「特別な」ものとしてノブスオルドと共存できるというのがバイリチュアルの論理です。ノブスオルドを許容しているからこそです。
トリエントを知り、伝統に生きるなら、一貫性をもって伝統に徹することです。バイリチュアルは過渡的なもの、妥協的なものでこそあれ、望ましい形態ではないのです。バイリチュアルを良しとして実践する保守派はだまされているし、自分で自分をごまかしているのです。それは蛇の舌と同じ形をした二枚舌になっているのです。
ルフェーブル大司教がバイリチュアルな公会議との共存路線を行かず、トリエントミサの単独性を守ったのは「大いなる淫婦」の時代にあって正しいことだったと言えます。バイリチュアルと共存すれば感染は免れられないからそうしたのではないでしょうか。