人類は携帯電話依存に陥っています。
教会も同じです。
司祭がミサ中に携帯をいじったり写真を撮っていたらおかしいと誰もが思うでしょう。
司祭は腕時計も外してミサに臨むものです。
ミサ中に時間を気にして時計を見るのは散心だからです。
信徒も司祭と同じように集中してミサにあずかるべきです。
「記録に残しておきたい」と思うのは気を散らせようとする者の誘惑です。
個人的に記録を残しておくことは何のためなのでしょうか。
そんなことをしなくても全ては全能者のデータベースに全部記録されています。
他のことをしていたら神と直接触れ合う機会を逃してしまいます。
もし主が自宅に来たら、芸能人でも迎えるように記念写真でも撮るのでしょうか。
しかし、そういう気遣いや歓待などより、マリアのように、ただ共にいることだけの方がいいのだとよ主はマルタに諭されました。
ミサ中に思い立ったときに思い思いに写真を撮りたいと思うのは心の乱れです。
それは街中や店で気に入ったものの写真を撮るのと何ら変わりない世俗的感覚です。
神に祈っているときに、神に正面切ってシャッターを切るのはいい度胸です。
会場の責任者や参列者だけでなく、写真を撮される御方からの許可を事前に取っているのでしょうか。
このままだと最期の審判でも多くの人が審判の様子を携帯で撮ってネットにアップすることになるかもしれません。
また、携帯を使う行為は本人だけでなく、周りの人の気も散らす迷惑行為です。
使いたければ会場から外に出て使いましょう。
ミサは聖なるものなので、ミサの行われている場も聖なる場として振る舞うことが必要です。