カトリックという宗教における司教の重要性と権能について述べましたが、それ故、教会は司教が司教を産出することには大変な注意を払っています。
勝手に司教を叙階するということは、勝手な分派を作ることに乱用される可能性があります。
そのため、バチカンの許可のないルフェーブル大司教の自己判断による司教叙階は一大事だったのです。
そのためにルフェーブル大司教は破門されました。ピオ十世会としはこれは破門ではないとしていますが、教会的には破門とされました。
また、十世会内でも司教叙階に反対して1988年の司教叙階式にはあえて出なかった司祭もいます。司教叙階の是非は今に至るまで燻っています。
伝統の神学校や司祭叙階はいいとしても、司教叙階までするべきではなかったという人もいます。
しかし、司教叙階はすべきでしたし、極めて賞賛に値することなのです。
それは何故かを考える前に、もしも司教叙階がなかったらについて考えてみたいと思います。
もしもルフェーブル大司教がいなかったら教会はどうなっていただろうかという話をよくします。そうであったら、大司教が死んだ後は司祭は生まれなくなり、時がたてば十世会に司祭はいなくなり消滅したでしょう。
それを補うために、ノブスオルドとトリエントミサの両刀使いのバイリチュアル(二股典礼)や、ノブスオルドの司教による司祭叙階という混血が行われるかもしれません。
あるいは、十世会信徒を連れ戻すために仕掛けられたバチカンの罠としてのエクレジアデイ委員会(インダルトのミサ)下の各種団体(王たるキリスト会など)だけが細々と管理されて残るかもしれません。しかし、それもいずれ潰されるでしょう。
世界各地での勇気ある個々の独立系の司祭もがんばっていますが、寄る年並みには勝てずにいつかは消えていきます。
教皇空位論者や怪しい聖母出現カルトの擁する司教へに合流する人たちもでるかもしれません。
結局、伝統を続けようとしても、バチカンに絡め取られて同化させられてしまうか、教会から飛び出して離小島の独立小王国になってしまうという悲惨なことにならざるおえないのです。
そうなれば、あとは秘跡や典礼がなく、信徒個人が信仰を保っていくしかないでしょう。その個人もいずれはあの世にいってしまい、この世にはほぼ原形を留めたものはなくなっていたことでしょう。そして、カトリックが培ってきた信仰と伝統は世に飲み込まれてついえてしまっていたことでしょう。
人類がだらしなければこのようになることも十分あり得ることだと言えましょう。