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今とは違う今も昔も変わらないカトリックのミサ(伝統的ラテン語ミサ)Traditional Latin Mass in Tokyo

公会議教会と交わるリスク

ルフェーブル大司教の言葉 

 

 最近、伝統は可視的(visible)教会に入る必要があると言われました。これはとてもとても重大な誤りだと思います。
 可視的教会とはどこにあるのでしょうか? 可視的教会はその可視性として教会が常に示してきた一、聖、公(カトリック)、使徒継承という徴によって認識できます。
 あなたたちに問います。教会の真のそれらの徴はどこにあるでしょうか。それらは公式(official)教会の中にあるでしょうか。(可視的教会ではなく公式教会にという意味です。)それとも家庭の中にあるのでしょうか。それとも私たちの中にあるのでしょうか。私たちとは誰のことでしょうか。
 公式教会から姿を消してしまった信仰との一致を守るのは私たちであることは明らかです。
 ある司教はこれを信じ、別の司教はこれを信じません。信仰は多様性のあるものだと語り、その忌まわしきカテキズムは異端を含んでいます。ローマに対する信仰の一致はどこにあるのでしょうか?
 (司祭黙想会、1988年9月9日)

 教会の中に入ること、これは何を意味するのでしょうか? まず第一に、私たちはどの教会について話しているのでしょうか? それが公会議(concilier)教会だというのなら、私たちはカトリック教会を求めてそれ(公会議教会)と20年間戦ってきたのです。それをカトリックのようなものにするために、私たちが公会議教会に入らなければならないというのです。それは全くの幻想です。上層部を作るのは民ではなく、民を作るのは上層部なのです。

(インタビュー、フィデリテ第70号、1989年7-8月)

 

コメント

 ルフェーブル大司教は公教要理でも言われている可視的教会と、バチカンを中心に存在している公式教会を識別しています。

 可視的教会とは真のカトリック教会のことで、公式教会とはカトリック教会とは言えないていたらくになっている世間でカトリック教会と思われている教会です。

 このように、分けて考えないと訳がわからなくなってしまいます。伝統も権威ある器(公式教会)の中に一緒に入れられて変えられてしまいます。伝統(真理)は権威に服することになります。

 だから、ルフェーブル大司教は、カトリック信仰を守る伝統主義者が公式教会に参入することは幻想、つまり、無駄なこと、思い違いであると看破しているのです。

 続いて、カトリックの立場から戦ってきた敵対主である公会議(公式)教会に、伝統主義陣営が入るということは敵の軍門に下るに等しいということが述べられています。堕落した公会議教会を良きカトリックにするためという一見良さそうなトロイの木馬のような目的が掲げられていますが、それこそ幻想に過ぎません。幻想どころか危険なことなのです。逆に、こちらにトロイの木馬を送り込まれるのがオチです。

 その理由として、やはり権威との関係が挙げられています。組織を作るのは権威ある者であって、権威の下にある構成員ではありません。会社を運営するのは社員でなく社長です。だから、そんな悪い社長のいる会社に入って、いくら会社を良くしようと奮闘しても、そんなことできるわけないのです。これは皆さんもよく体験している実社会と同じです。

 だから、自営業として大企業である親会社(公会議教会)の傘下からは独立し、買収されたり、なあなあのおつきあいをしたりしないことで、大企業の悪しき取引(近代主義)に汚染されないようにしつつ、カトリック教会の経営方針(伝統)は貫いていくわけです。親会社がいい社長、いい会社にならない限り、取引や合併や参入はしませんよということです。

 公会議教会の権威の下に入ったら敗けです。公会議教会と交わったら汚れてしまいます。