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今とは違う今も昔も変わらないカトリックのミサ(伝統的ラテン語ミサ)Traditional Latin Mass in Tokyo

二種類の司教 1

TWO KINDS of BISHOP – I | St. Marcel Initiative

 以下は上の記事からです。このシリーズは続いていますが、翻訳は遅く、部分訳なので原文を参照することをお勧めします。

 

二種類の司教 1

 

 新十世会(訳註:以前と変わったので「新」をつけている)の司祭と、そこから離脱して「レジスタンス」と呼ばれる非構造的組織に加わった司祭は、共に、いかに司教がカトリック教会の生存にとって不可欠かを知っている。しかし、未来に向けて、そのような司教を確保していく方法については異なる見解を持っている。

 第二バチカン公会議カトリックの権威をカトリックの真理から分裂させてしてしまった。その分裂は1960年代から教会の中心に存在している。

 一般的に、新十世会は真理(真理を完全に放棄することはなく)よりも権威を好み、一方で、レジスタンスは権威(権威を完全に放棄することはなく)よりも真理を尊んでいる。

 それ故、新十世会は切実な必要がある司教叙階の認可を、いまだにーマやバチカンから望んでいる。一方、「レジスタンス」は認可なしに自分自身のために司教を叙階している。それはルフェーブル大司教が1988年に元来の十世会のためにおこなった大きな成功と同様におこなわれている。

 新十世会がいまだにローマからの新しい司教叙階の許可を待っていることを証明するには、2022年早々にフェレー司教がスペインのジャーナリストに語ったことで十分である。新しい司教を叙階するつもりかどうかと聞かれて、彼はこう答えている。「私たちはルフェーブル大司教が当時おこなったのとまったく同じようにおこなう。緊急性と必要性が生じたならば、ルフェーブル大司教がしたようにする。ローマについて、その返答次第では私たちは善き主が仰せになるようにする。新しい始まりだと思う。それはここ数年ではより明白なものになるだろう。近い将来、カトリック教会の司教たちが私たちを公に支援することを禁じることはない。もしそうなれば十世会は独自の司教を叙階する必要はなくなるだろう。」

 2点言及したい。最初に、ルフェーブル大司教は、伝統、すなわち、真理のために4人の司教を叙階する計画に関して、ローマの権威から青信号(許可)を得るために、1988年5月の(司教)叙階に関してローマと交渉はしていなかった。(それまでの)数々の交渉において、ルフェーブル大司教はラッチンガー枢機卿がローマによる司教認可を拒むために、叙階の日にちをわざとうやむやに先延ばししていることに気づいた。ローマの権威は真理を気にかけることを拒んでいることがルフェーブル大司教には明白になったので、以来、1991年に亡くなるまで、ローマがカトリック信仰に立ち戻らない限り、一切のコンタクトをやめると語ったのである。では、2023年(現在)、(ローマは信仰に)戻ったであろうか。明らかに否である。パチャママとトラディシオニス・クストディスは以前よりも激しいカトリック信仰への戦いの例である。それなのに、なぜフェレー司教は自分がルフェーブル大司教と「まったく同じ」ことをしているなどと言えるのだろうか。

 第二に、先のインタビューにおいてフェレー司教は、信仰なき権威(ローマ)が信仰に対しておこなうことに関してルフェーブル大司教とは全く違う概念をもっているだけでなく、新十世会が司教叙階を新(ノブスオルド)教会の司教たちの手に委ねることを明確に思い描いている。しかし、新教会の司教たちは公会議後の典礼で司教に叙階されており、その典礼はブニーニ大司教のようなフリーメーソンによって捏造されたものであり、その有効性は疑いの影におおわれている。フェレー司教はルフェーブル大司教がこんな保証のない典礼に手を出すと考えているのだろうか。

 反対に「レジスタンス」はルフェーブル大司教が1988年に切り開いた模範に従って、真理と伝統のために独自の司教を産出している。(以下略)

 

 訳者コメント

 ノブスオルドのフォンダ司教が十世会に侵入してきたのは、例外や不完全性ではなく、十世会の司教がノブスオルドの司教に取って代わられる工程の始まりであり、信徒に向けての慣らし運転なのである。 

 ルフェーブル大司教による4人の司教叙階は、ローマとの交渉の果てに没交渉となった後に行われたものである。ローマとの没交渉という方針は十世会に受け継がれ、現在はレジスタンスに引き継がれている。